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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 



その4
神が年に一度通る道

ルート
里堂から三宅橋、花園橋、山端橋辺りを通る旧街道
里堂を出て、少し行き、道を左にとる。神輿が通ればいっぱいの道幅、曲がりながら下る道が続き、叡電の踏切を越えると急に広い場所に出る。三宅橋の袂である。

ここはかつてこの地の人びとが日々の暮らしで、集う場所であった。
そこは若狭街道沿いの京都から若狭へ抜ける道でもある。

川沿いに車を通す道が出来たお陰で、京都方向へは、比較的静かな旧街道になっている。

ただ毎年5月5日の祟導神社の祭礼の日は華やいだ道になる。
神輿を始めとした行列の一行はこの三宅橋詰から花園橋詰、山端橋詰を通る旧街道(一部白川通など現道路と合流している)を往復して帰ってくる。

そして高野川を横切る三宅橋を渡り、川北にあるお旅所へ向かうのである。
三宅橋と花園橋では行きと帰りに二度ずつ神輿が担ぎ手によって橋の上で暴れだす。

これがこの祭りの見せ場になっている。その間、車は通行を遮断され、鎮まるまで待たされることになる。
高野川に架かる橋の上、そこは旧街道と現在の道路とが交差する地点でもある。まさに旧街道を行こうとする神輿と現道路を走り抜ける車との戦いの場になる。

そもそも神輿は早良親王すなわち祟導天皇の御霊である、暴れることによってその霊が慰められることになるとされている。

平安京ができる前、長岡京造営時、その責任者藤原種継の暗殺に連座したとして乙訓寺に幽閉されて、流罪となり無念のうちに淡路に送られる船中で没したとされる早良親王の怨霊の祟りであると言われる災いが頻発した。

中心人部であった種継を亡くしたこと等から造都は頓挫。未完の長岡京を廃し、都を今の京都の地に遷すことにした桓武天皇は真っ先に、災いの元、怨霊、早良親王の鎮魂をと、この上高野の地にその早良親王を祀り、祟導神社としたのである。

年に一度の祭りで、神輿が暴れるのは神、すなわち早良親王の怨霊の無念を晴らし、そして癒し鎮めるためなのである。

昨今、人々は便利さ、楽しさのみを際限なく求め続ける、又国と国との戦いは尽きず、その果ての環境破壊、自然への虐待を繰り返し行ってきた。

それに耐え兼ねた自然界の怒り、その怨霊がもたらす災い、それが近年各地に起こる異常気象や自然災害にあたるのであろうか。又頻発する大事故や想像を絶する事件等に見る人の心の荒廃、ということにつながってくるのであろうか。

怨霊の祟りを恐れる心は、今こそ大切にしていかなければとの気持に・・・。




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