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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 



探訪シリーズ@山城めぐり

上高野にも・・・山城があった!

みんなで訪ねてみませんか



開催要領


実施日 2001年2月25目(日曜日)・小雨決行
集 合 午前9:20 三宅八幡宮 噴水前
  9:30出発−10:00三宅八幡城跡−10:30八瀬城跡−
11:00小野毛人の墓−11:30崇導神社−12:00御蔭神社《昼食》−
13:10御蔭山城跡佐竹城)−14:30御蔭神社 解散
解 散 午後2:30
参加費 一般500円(会員無料)
高校生以下無料(小学生は父兄同伴にて参加可能)
持参品 昼食、水商、手袋、雨具
お申込 上高野の自然と文化を学ぶ同史会事務局迄




山城跡めぐり

比叡山地質図 補足資料
平成13年2月25日
 地上に立つ私どもの足元は、近畿地方のごく一部のまたその一部であるに過ぎませんが、それは日本列島の一部であることに変わりはありません。それなら、その座標軸というのは、経度(X軸)緯度(Y軸)で示すことができますが、その一点は間違いなく地球上の一点です。従ってそこで人牛の営みを続ける私どもは、地球的(グローバル)な視点抜きで白然も歴史も文化も語ることはできないでしょう。

 さて、このXY座標にZという3次元の軸(高度)を導入してみますと、その一点の局面はがらり様子を変えることになります。これが、今日探訪する山城跡めぐりの面白さなのです。

 さて、各城跡からのパノラマは!!ところで、3つの山城跡の地図(プリントの1枚目)を見て下さい。地図1枚目の364と365地点(5枚目の佐竹城CとBに当たる)は、高野川の北岸にありますが、366地点(5枚目の佐竹城Aにあたる)は高野川を挟んで南側に位置しています。これは、地質学的に大きな違いがあります。前者はいわゆる丹波山地で、古生代石炭紀〜中生代ジュラ紀にかけた地層であるに対し、後者は前者より300mほど高い比良〜比叡山地であって、古生代末〜中生代初期の古い堆積岩中に、中牢代末期の白亜紀末(約9800万年前頃)に深い所でできた花陶岩が貫人してできたわけです。

  しかし、花闇岩は風化しやすいので削りとられ、風化しにくい熱変成岩(ホルンフェルス)からできている比叡山と大文字山は山頂として残っているわけです。ですから、1億年程前の比叡山は今とはかなり違う1000mを優に越えた高い山であったわけです。もし風化がなかったなら、京都の景観もかなり違ったものになり「布団きて寝たる姿や東山」というわけには、いかなかったでしょう。

 ところで、1500万年前〜100万年前頃までは、山地が浸食されて準平原ができる程度の地質学的変化しかなかった近畿地方の地殻にも、歪みが生じはじめ、新生代更新世(洪積世)にはいると、歪みはますます大きくなっていき断層を生じるようになりました。

その1つである花折断層は、丹波山地と比良〜比叡山地をナイフで切り裂いたように直線状に走り、八瀬遊園付近から南へ枝別れして、南西の方向に走っています。365点からは、それを見下ろすことになりますが、366点はまさにその脚下を第一級の活断層が通っていることになります。364及び365点の基盤山地はチャート質の岩石ですが、366点は概ね花崗岩質なのです。

  チャートという堆積岩は、もとは放散虫というケイ酸質の骨格をもった微生物が海洋底の岩盤の上に積もって(堆積速度は1万年間に約5センチ)できた堆積岩なのです。その岩盤が、はるばる数千キロを一億年以上(一年に数センチぐらい)かけて移動してきて、日本海溝に到着し沈み込み、それが地殻変動や造山運動などで地表に表れたもので大変硬く、加工しにくく石垣には適しませんし、赤松ぐらいしか生えません。花折峠の奥の皆子山(海抜971.5m)の麓のアシビ渓谷にみられるチャート属は、粘板岩をはさんだ見事な摺曲をしています。機会があれぱ、一度見ておかれたらよいと思います。一方、花闇岩は加工しやすく石垣によく使われますが、366点の佐竹城Aの石垣はその付近で採石された花崗岩を使っているようです。築城以来今日まで致命的な断層地震がなかったために、現状をとどめているのではないかと思います。

上高野東山の城
 御蔭神祉の東南300m、ハチブタイと呼ぱれる山にある。この山は比叡山の中腹にあるが、コブ状を呈し、比叡山側、つまり高所側からの攻撃には十分耐えうる位置にある。佐竹氏の本城であり、高野川をはさんだ支城を指呼の間に望む。

 佐竹家は戦国期の有名な土豪。子孫も上高野植ノ町に現存。通称は甚九郎。文書類は多く残っているようであるが未公開。

 「信長公記」巻三、元亀元年(1570)九月二十四日「八瀬大原口には山本対馬守、蓮養、足がかりを構え陣取。」ここでいう蓮養は佐竹蓮養坊のこと。これは信長が義昭とともに、浅井・朝倉軍を比叡山に追い上げてにらみあっていたときで、山本、佐竹は義昭の家来として信長に加勢していた。

 磯谷氏の系図には、「佐竹蓮養坊ト申スハ比叡山ノ政所ヲ披セツケラレ、則チ、山ノ下、山城ノ国、高野二居住、ソノ辺ヲ所領、比叡山ノ守護役也。蓮善坊の息女ハ吉田兼見郷ノ御簾中也」とある。しかし他の系図では「吉田兼右ノ女、高野ノ佐竹蓮善坊二嫁ス」となっている。いずれにせよ、吉田家と佐竹家はある時期姻籍関係をもっていたようである。
蓮養坊と蓮善坊は同一人物かどうかは不明であるが、おそらく同一人物であろう。なお蓮養坊と蓮陽坊は同じである。

364 三宅八幡城跡
山城跡 室町 岩倉盆地の東山地に造られた山城。山麓には三宅八幡神社がある。佐竹氏の支城と推定される。(献1221)
上高野西明寺山
岩倉は花園町

この山城の役目
秋の稲が実るころ、都から武士がやって来て、農民を襲っては米をとり、家を焼いては都に帰る。という事を毎年繰り返していたので、農民は身の危険を感じ、自分たちの避難場所として、農民だけの城を作ったと思われる。上高野と岩倉境界線上を、双方にまたがる形で立地している。この土地は、山本氏のものか、佐竹氏のものかは不明である
365 八瀬城跡
山城跡 室町 高野川の右岸、御蔭山城と対峙する尾根の先端に造られた小規模な山城跡。堀切・郭・曲輪が残存する。佐竹氏の支城とされる。[献1221・1493]
上高野西明寺町
八瀬野瀬町

この山城が、上高野と八瀬の境につくられたのは、旧街道(さぱ街道)から都に上る者を見張っていた城ではないかと思う。
366 御蔭山城跡
山城跡 室町 高野川の左岸、御蔭山の中腹の標高230m付近に造られた山城。土豪佐竹氏の本城とされる。山の北斜面を大きくカットして造られた郭や曲饒が良好に残る。[献1221]
上高野東山

この城は、八瀬から都に上る者がいち早く見える場である。そして向かいの城に狼煙を揚げて知らせていたと思われる。

三つ目の城は、現在三明院の跡に城があったと佐竹氏が語っていた。




<地図の説明>
A地点付近……三宅八幡城址跡 岩倉盆地の東山地に造られる。山麓には、三宅八幡社がある。樹間に岩倉・木野方面が望まれる。
B地点付近……八瀬城跡 高野川右岸。C点の御蔭山城と対時する尾根の先端に造られる。ここから、遠く修学院・一乗寺が見える。
C地点付近……御蔭山城跡
(佐竹城)
高野川左岸。御蔭山の中腹、標高230m付近に造られた。土豪佐竹氏の本域ではないかと言われている。







佐竹城C付近

三宅八幡宮裏山

佐竹城C→はぶ池

西明寺山東尾根付近

↑東尾根より、佐竹城Bへ
修学院・一乗寺が遠くに見える



→佐竹城Bより遥か比叡山を望む

佐竹城Bにて説明を聞く参加者

カサコソと落ち葉を踏んで佐竹城Aへ

御蔭神社境内で参加者一同の記念写真

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