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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 


「 花 折 断 層 」を歩く

〜ゆかりの神社・史跡を訪ねて〜

2001年11月10日()




花折断層を歩く

ゆかりの神杜・史跡を訪ねて

 昨今の新聞・テレビを見ていると、大地震のことがよく話題になっている、南海地震、東南海地震の予測震度、東海地震の震度6弱以上の予測される市町村名、金沢の森本・富樫断層がM7級の地震が起きる確率等々、多くの地震に関係した記事が目に付きます。

上高野の住民としての私たちは、東海、南海、東南海地震が起きれば、阪神大震災並か、それ以上の揺れがあると思って備えなければならないと思いますが、それ以上に気になるのは上高野を通っている花折断層のことではないかと思います。

そこで、同史会は上高野を通っている花折断層について、上高野の人達にもっと良く知ってもらうために、2001年5月12日(土)「花折断層沿いの神仕を巡って」、11月10日(土)「花折断層を歩く」の2回にわけて花折断層の南部を約10kmほど歩きました。


5月12日 「花折断層沿いの神杜を巡って」

一乗寺のバス停から、はじめに八大神仕にお参りし、官本武蔵と吉岡一門の決闘のときの松の一部が奉られているのを見て、次に鷺森神杜、赤山禅院では神杜、寺が同居していることの不思議さと、屋根の上の狛犬ではなく神猿の出迎えに驚き、御蔭神仕では午の刻に行われる御生神事と平安時代の衣装での神幸行粧のあでやかさに目を見張り、楽しい半日を過ごしました。

11月10日 「花折断層を歩く<後半>」

上終町(京都造形芸術大学前)に集合して京都大学農学部グランドの断層を見て、北白川西町(白川村の入り口、近江へ向かう山中超えの入り口)にある、鎌倉期の石仏の「子安観世音」、同じ西町で京都大学の裏にある「大日如来」と大日如来の横に、嘉永二年(1849)の「道標」(南 左三条大橋 祇園清水 知恩院 西東本願寺  東 吉田杜 銀閣寺 黒谷  北 右北野天満宮 平野社 上下加茂 今宮 金閣寺  すく 比ゑいさん 唐崎坂本)を見て文字が読みにくく悪戦苦闘して、吉田神杜へ到着。

吉田神社から5分で白河養護学校下の断層の見学、断層が壁のようになっていて7〜8mの段差があり、数秒間でこれだけ移動したことに参加者全員が地震の恐ろしさに唖然としました。

その後、紫雲山金戒光明寺(黒谷さん)で御影堂、黒谷で眠る日本の歴史に登場する著名人のお墓をお参りし、きれいな紅葉を見ながら鈴聲山真正極楽寺(真如堂)をお参りして解散いたしました。

花折断層について

 花折断層は若狭湾から安曇川沿いに大原、御蔭神杜、修学院離宮の上池を通り、吉田神社の南までの数10Kmにも及ぶ右横ずれの活断層です。

  これまで実施されたトレンチ調査によると、北部は寛文2年(1662)に活動したが、南部の最新の活動は約2,500−1,500年前で、それより前の活動は8,000−7,000年で、過去2回の活動間隔は4,500−6,500年と推定できるが、340年前に、花折断層の北半分が動いている事実があり、南半分が過去の活動間隔通り後2,000年は動かないと言う保証は何処にもなく、むしろ北半分が340年前に動いているのだから、南半分も何時動くかわからないと考える方が普通ではないかと思われる。

 そこで、何時か起こるであろう大きな地震に備えて我々に心構えと準備が出来ているかが間題だと思う、家具が倒れてけがをしないか、直ぐに火を消すことができるか、非常食は備えてあるか、非常持ち出し物は大丈夫か、避難場所は何処か、外出している家族との連絡方法は、冷静に判断をして行動に移せるか等々数え上げれぱきりがないほどあるが、一度家族で話し合っておくことも必要であろうと思う。

花折断層沿いに何で神杜があるのか

 安曇川、大原、八瀬までは山間に川があり道が出来民家があるが、上高野から南は扇状地が広がっているにもかかわらず断層沿いに神社があるのはなぜか。

 北から御蔭神杜、赤山禅院、鷺森神祉、八大神仕、吉田神仕があるが、ほとんどの神社は応仁の乱などで焼失されたが現在は復興され、1,200年前後の歴史をもつ神社がほとんどである、これは断層のあることを知って建てたのか、偶然のなせる所かはわからないが、もし、断層があることを知った上で神仕を配置したとすれば先人の知恵のすごさ、すばらしさだと思う。

御蔭神杜


加茂御祖神杜(下鳴神杜)の摂杜

御祭神
賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト) 西殿
玉依媛命(タマヨリヒメ) 東殿


御蔭神杜は何時頃からあるのか定かではないが、「賀茂史略」に、

天武天皇六年二月丙子(677小野毛人の葬られた年)山背ノ國ヲシテ賀茂神宮ヲ営シム 上社ハ元ハ御阿札所二祭リシヲ今ノ地二遷シ営ミ下ノ社ハ元御蔭山二祭リシヲ今度ヨリ直澄里二遷シ営ナリ 

とあり、1324年以前の歴史があることは間違いないであろう。

御蔭祭は毎年5月12日午の刻に御生神事(神の御魂の再生)が行われ、加茂御祖神社まで神幸行粧(日本最古の神幸行粧)を行い、加茂御祖神社では荒魂を迎えて5月15日に葵祭が行われる。

今は途中波爾神社(赤宮神杜)のみで路次祭が行われるが、明治以前は、赤山、鷺ノ森、八大神祉でも路次祭が行われた。

御蔭祭の御生神事


御蔭祭の神幸行粧
道の辻々でお払いをしながら進む

赤山禅院


 天台宗・比叡山延暦寺・赤山禅院は、平安時代に、第三代天台座主の慈覚大師円仁(794−864)の遺命により創建された寺院である。

 京都の表鬼門に位し、赤山大明神(天竺の深沙大王、中国の泰山府君・陰陽道の祖神)を皇城の鎮守として仁和4年(888)に建立された。

 拝殿の屋根で、白い御幣と金鈴を捧げ、京都御所東北表鬼門の方角に向ってうずくまる「神猿」は赤山人明神に仕える従者で、「厄難が去る(猿)」といわれている。

 方除けの寺・目本最古「都七福神」・延暦寺、天台随一の荒行、千日回峰、赤山苦行(800日目)の寺、商売繁盛の神などで有名。

赤山禅院・赤山大明神の拝殿


赤山禅院・拝殿の屋根の「神猿」

鷺森神杜


御祭神

素盞鳴尊(スサノオノミコト)


 鷺森神杜は、貞観年中(871)の創建で、最初比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていたが、応仁の乱の兵火で罹災し、今の修学院離宮の山林中に移された。

 その後、後水尾上皇の代に修学院離宮造営に当たって、現在の「鷺の杜」に社地を賜り、元禄二年六月(1689)御遷座になり、修学院、山端の氏神様として今日に至っている。

 神幸際は五月五日で、装束に行装を整え、赤山禅院に参詣し修学院御旅所から御神輿が氏子区域を巡辛する。

鷺森神社


鷺森神社・御幸橋
音羽川にあり、御水尾上皇・霊元法皇の行幸の砌、お通りになった名橋。

八大神杜


御祭神

素盞鳴尊(スサノオノミコト)
稲田姫
八王子(五王子,三王女)


  八大神杜は永仁2年3月15目歓請(1294)祇園八坂神杜と御同神で古来より北天王(北の祇園)と称された、応仁の乱の兵火で焼失、陽成天皇の文禄3年(1594)に再建された。

 この神仕は皇室との関係も深く、後水尾天皇・霊元天皇・光格天皇が修学院離宮に御幸の際立ち寄られ、皇居守護神十二社中の一つである。

八大神社


八大神社
宮本武蔵・吉岡一門の決闘の時の松

吉田神杜


御祭神

第一殿 健御賀豆知命(タケミカズチノミコト)

第二殿 伊波比主命(イハイヌシノミコト)
※健御賀豆知尊・伊波比主命は、共に、天照大神の大命を拝し、大国主命に勅命を伝えて、此の国を、天孫に献奉らしめ給い、諸国を巡り民を慈しみ国土平定の大功を樹てられた神々。
第三殿 天之子八根命(アメノコヤネノミコト)
※天之子八根命は天照大神天岩戸に隠れ給うた時、祷言(ネギゴト)を申して功を樹てられた神。
第四殿 比売神(ヒメガミ)
※比売神は、天之子八根命の妃神で婦徳の高い神。

吉田神社の参道


吉田神社の本殿
 吉田神杜は、清和天皇貞観元年4月(859)中納言、藤原山蔭が、春日の四神を勧請し平安京の鎮守神として吉田山に創建された。

  永延元年(987)一条天皇の行幸を始め、正暦二年(991)大社の一に列せられ、堀川天皇嘉承元年(1l07)四度官幣に預かる等、阜室の崇敬極めて厚く、殊に神職「吉田兼倶(カネトモ)」が「吉田神道」を創設し、後土御門天皇文明十六年(I484)斎場所大元宮を造営してより、益々隆盛加わり神道界の権威を保持。

 本殿は、応仁の乱で兵火にかかり、天文三年(1534)に造営、大元宮の杜殿は、朱塗りの八角に六角の後房を附し、屋根は茅葺八角、千木は南方ご内削、北方が外削に勝男木は南方は丸三個重ね三ヶ所に北方は角二個宛二ヶ所に、棟の中央七角の台に八咫璽(ヤタノミタマ)が置かれ七本の火炎型の金具を取り付けてある等、形体は総べて吉田神道の原理により表現された社殿で重要文化財に指定されている。

 室町時代以来の伝統を誇る節分祭は、節分の当日を中心に三日間行われ、約百万人の参拝者で境内は埋め尽くされる。上高野からも、朝早くから氏神様をお参りして徒歩で赤山・鷺森・羽山観音と次々とお参りしながら吉田山へお参りをされる方が今も多くおられます。

紫雲山金戒光明寺

浄土宗の大本山で昔から「黒谷さん」とよばれ親しまれている。

開山 宗祖 法然上人(源空)
本尊 阿弥陀如来
浄土宗本山
総本山 知思院
大本山 黒谷   
百万辺  

芝  
長野   
鎌倉   
久留米   
光明寺
知恩寺
清浄華院
増上寺
善光寺
光明寺
善導寺
別格 岡山誕生寺

 15歳で比叡山に登られた法然上人が承安5年(1175)、43歳で修行を終えて、お念仏の教えを広めるためにこの地で念仏されたとき、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことからこの地に草庵をむすぱれたのが始まりです。




金戒光明寺・御影堂


金戒光明寺・熊谷直美の鎧かけの松
御影堂大殿

法然上人75歳の御影(坐像)を泰安している、火災による焼失後、昭和19年に再建。


阿弥陀堂

慶長10年(1612)豊臣秀頼により再建。如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納めてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称される。


山門

万延元年(1860)完成


文殊菩薩と三重の塔

くろ谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期、徳川秀忠菩提のために建立の三重の塔に安置されている。
京都守護職 会津藩主 松平公本陣旧跡
京都市中警護のために松平容保は任命され、文久2年(1862)10月24日入洛、くろ谷に本陣をかまえた。
一枚起請文(法然上人直筆御遺訓)
法然上人が入滅される二日前、建暦2年(1212)正月23日に筆をとって弟子の勢観房源智上人に与えられた。
日本の歴史に残る著名人のお墓

「開祖法然房源空」始め「代々の上人」・「熊谷直実」・「徳川秀忠夫人」・「徳川忠長」・「春日局」・「鳥羽、伏見の戦いで殉難した261人の会津墓地」・「朝敵の汚名のもとに顧みるものもなかった遺骸を埋葬した会津小鉄」等々、多くの著名人のお墓があり、一度お参りする価値あり。

熊谷直美の墓

徳川秀忠夫人の墓

徳川忠長の墓

春日局の墓

鈴聲山真正極楽寺


開山 宗祖 戒算上人
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来立像

 永観2年(984)比叡山の僧戒算上人が、比叡山常行堂の本尊、阿弥陀如来立像を神楽岡の東にあった東三条女院(藤原道長姉、一条天皇御母)の離宮に安置したのが始まり。

  応仁の乱(1467)の戦火で堂塔は焼失、ご本尊は、難を逃れて比叡山や大津に移転、その後、足利歴代将軍や豊臣秀吉により京都市内数ヶ所を転々とした後、元禄6年(1693)旧地である現在の地に再建された。

  本殿をはじめとする伽藍の多くはこのころ建てられた。


阿弥陀如来

 慈覚大師円仁が入唐求法の旅から帰国後、かやの霊木で如来を彫られた時、

「比叡山の修行者のための本尊になりたまえ」

と眉間に白毫(※)を入れようとすると、如来は三度首を振り拒否された。

「それでは京の都に下って一切衆生を導きたまえ、中でも女人を救いたまえ」

と言われると、三度うなずかれたという。

  大師はそのまま白毫をいれず、比叡山常行堂の本尊として安置、如来は東三条女院と戒算上人の夢のお告げを受けて本願通り、京の都へ下って真如堂の本尊としてまつられた。


鈴聲山真正極楽寺の本殿


鈴聲山真正極楽寺の三重塔
(※)白毫(ビャクゴウ)・・・仏のひたいにあって光を放ち、すべての国土を照らすと言う白い毛


千手観音

仏教大師最澄作と伝えられている。


不動明王

平安時代の、陰陽師阿部晴明の念持仏で晴明を危機から救ったという。

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