上高野の自然と文化を学ぶ同史会 公式ホームページへようこそ <京都 洛北 上高野 ・ 豊かな暮らし自然歴史に育まれた地域 ・ KYOTO RAKUHOKU KAMITAKANO>
上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 


「 花 折 断 層 」沿いの神社を巡って

〜「御蔭祭り」を訪ねる〜

2001年5月12日(土)


花折断層について


 京都盆地は断層運動により陥没してできたものであるが、幾回かの断層を堺に山はますます高くなっていった。さて、これらの変動を引き起こした断層の一つである花折断層は、我が国でも第一級の活断層であって、滋賀県の安曇川〜花折峠〜途中越え〜八瀬へと比良山脈と丹波山地をナイフで直線状に切り裂いたように走り、八瀬から2〜3枝別れしている。

 その一つは、修学院の東山麓〜一乗寺の瓜生山の西端を通り、京都造形芸術大学前から京都大学のグランド東側を抜けている。
(下の地図参考)

 昨年8月、通産省工業技術院地質調査所が断層の通過推定ラインをトレンチしたところ、見事、過去の地震で地層が最大50センチずれている場所を確認したニュースは私どもの記憶に新しいところである。

 本頁に掲載した写真(Fig.1)が、そのトレンチ現場であるが、地面が押され地層が曲がっている状況を観ることができる。

 その位置は、京都市左京区一乗寺月輸寺町にある武田薬晶工業京都薬用植物園内であって、写真の(Fig.2)がその調査現場である。修学院離宮はこの写真の左の方に位置するが、この付近は背後の緑の付属林と一体となって、田園牧歌的な珠玉の景観を呈している。

花折断層は離宮内の上池付近を通っているのであるが、この調査現場のすぐ近くには、また御祭神素蓋鳴尊を祀った「鷺の森神社」がある。

ところで、京都大学グランドの東側に達した断層はそこで地表崖(Fig.3)となって現れている。断層は更にそこから、吉田山の西麓を南走し、白河養護学校前で高さ7〜8メートルの崖(Fig.4)となっている。
その場所に庁むと、その凄さに圧倒される。まさに、人地の営みを垣問見る、思いである。

ところで、周囲を高いがなだらかな山々で囲まれた京都は、昔から"山紫水明"の都として、その風光明媚を称えられてきたが、これは、地学的にいえば、地震による大きな地盤変化や地層の急傾斜、断層崖の影響なのであって、これらの現象が周囲の景観に関係していることが判る。

また、断層運動では、山地と平野の境界の山裾は一直線状になっていることが多く、活断層によるずれの形跡を知ることができる。京都東北都の地図をよく観察すると花折断層によってできた直線状の渓谷がよくわかる。

前述した様に、八瀬から枝別れした断層の一つは比叡山麓を通り南西の方向ほぼ一直線に走っているが、この断層線上に、偶然とはいえ、今日の御蔭祭の見学会の途中に立ち寄る4つの神社が並んでいるのである。これらの各神社は、御蔭神社での例祭の帰途、神霊を下鴨神社に移御する長い行列−神幸行粧−のコースにあるわけである。

いずれも皇室との関係が深く、これらが一つのライン上にあることが何か特別な理由がある様に思ってしまうのである。さて、これらの神社の概略を見学会のコースの南から順次説明すると


Fig.1撮影日H12.9.2(土) 


Fig-2撮影日H12.9.2(土) 


Fig-3撮影日H13.2.5(月) 


Fig.4撮影日H13.2.5(月) 

その1 八大神社……一乗寺松原町1

☆旧村社で、祭神は素盞鳴尊・稲田姫・八王子である。
☆第87代伏見天皇、執権北条貞時時代に勧請、造営並びに改修されたが、応仁の乱の兵火で焼失、第107代御陽成天皇の文禄3年(1594)に再建された。
☆この神社は皇室との関係も深く、後水尾上皇・霊元法王・光格天皇が修学院離宮に御幸の際、立ち寄ってられ、皇居守護神12社中の一つである。
☆古都の北東隅に位し、方除神・学業の神・縁結びの神として世の信仰も厚い神社である。
☆境内には、剣聖宮本武蔵が吉岡一門と決闘せしときの松の一部が保存されている。彼はこの神社に「勝たせ給え。きょうこそは、武蔵が一生の大事」と祈願したと言われている。

その2 鷺森神社(鷺社)……修学院宮ノ脇町16

☆貞観年中(871)の創建と伝えられ、祭神は須盞鳴尊
☆応仁の乱の兵火に罹り、後水尾上皇の代に修学院離宮造営に当たって、現在の地に社地を賜り元祿2年(1689)御遷座になる。
☆皇室との関係が深く、後水尾上皇より拝領した神具(特に豪華絢爛たる紋入りの鳳輦)や林丘寺三世・博山元敞の宮御染筆の掛軸など貴重な社宝がある。
☆修学院・山端地域の鎮守神社であり、家内安全・旅行安全・諸願成就とある。
神域は幽静閑雅の趣あり。
その3 赤山神杜……修学院開根坊町18(修学院離宮北隣り)

☆本尊は赤山大明神(天竺の深沙大王、中国の泰山府君のこと)を察り、開基は第59代宇多天皇の仁和4年(888)に安恵和尚、慈覚大師の遺命により建立さる。
☆この地は、平安京の表鬼門に当たり、方除けの祈願所と定められ、歴代朝廷の崇敬が厚く、赤山禅院とも称し、天台宗比叡山延暦寺の別院である。
☆修学院離宮に隣接し、樹木欝蒼と繁茂し、清楚感がする。
☆氏子とか檀家はないが、商売保護の神として、庶民の間で尊崇されている。
☆拝殿の屋根にうずくまる「神猿」は、赤山大明神に仕える従者である。

その4 御蔭神社……上高野東山町
別記:次項、「御蔭祭と賀茂御祖神社(下鴨神社)」参照





御蔭祭と賀茂御祖神杜(下鴨神杜)

御蔭神杜

賀茂御祖神社の摂社 毎月2日に月並祭が行われます。
ご祭神
賀茂建角身命  西殿
玉依媛命    東殿
現在の社殿の場所は、天保6年(1835)に本宮の式年遷宮に合わせて御動座なった、それまでの社殿は、八瀬の方(北東の方向)へ約200メートルの所にありましたが、宝暦8年(1758)8月22日の長雨による土砂崩れがあり、又、文政12年(1829)7月8目の大地震による山崩れでお社のほとんどが埋まってしまいました。
御蔭山は、承和11年(844)太政官符により上高野を含め社領となりました。
上粟田郷一乗寺村高野、小野郷大原御蔭山などいろいろと書いてありますが、上粟田郷、小野郷、比叡山の境目になっていたようです.

御蔭祭

御蔭祭とは、明治維新で神社の制度が変わってからの名弥で、古代は、御蔭山で行われる御生神事(神の御魂の再生)と呼ばれていました。
京都三大祭の一つである、賀茂祭(葵祭)が5月15日に行われますが、賀茂祭は下鴨、上賀茂神社と宮中との関係において営まれる官祭であり、神社本来の祭は、5月12日に行われる御蔭祭、みあれ祭にあります。
みあれ祭(上賀茂神社)は、御生所で夜中の子の刻に行われるのに対し、御蔭祭は昼の午の刻に行われる。

神幸行粧

御祖神社を出発し御蔭神社に行き御祭神の二柱の荒魂を迎えて、波爾伸仕(赤ノ宮神社)にて路次祭、河合伸仕、切芝(森の古代祭礼場)にて神事を行い、荒魂を本宮に迎え15日に賀茂祭を行う。
現在は、100人程の神幸列で交通事情も有り行程の大半をバスで移動し、神幸行粧は御蔭神社の麓からと、下鴨中通から本宮までと行粧は短くなっていますが、昭和38迄は馬と徒歩で、340〜350人での神幸行粧が行われ、明治以前は、赤山、鷺ノ森、八代、波爾神社で路次祭が行われていた。
この神事に参加する人たちは下鴨の氏子に加えて静原神人、中村(岩倉)神人、五ヶ郷(岩倉、上高野、松ヶ崎、一乗寺、田中)の人たちが参列しています。
昔は、上高野から20から30人の人が参列して、行粧も桧峠を通っていたようです。



前のページへ 目次へ 次のページへ



他のページへ戻るには、このCLOSEボタンをクリックして下さい。

検索エンジンなどで、このページから表示された方は、トップページはこちらから新しいウインドウで開く事ができます。

上高野の自然と文化を学ぶ同史会」事務局:京都府京都市左京区上高野
<恐れ入りますがお問い合わせはEメールでお願いします>
Copyright since2006 上高野の自然と文化を学ぶ同史会. All Rights Reserved.