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上高野の自然と文化を学ぶ同史会(京都洛北上高野)
 

比叡山


名   称 比叡山(ひえいざん)
ご 紹 介 <目次>

1. 概略

2. 地形の形成経過

3. 滋賀超え(山中超え)

4. 山頂への主なルート
    ・・・徒歩.自動車・ケーブル


5. 峰峰から流れる主たる河川

6. 白川石

7. 動植物

8. 神社.寺院等
    ・・・日吉大社・延暦寺・坂本


9. 東の比叡山と西の愛宕山

10. 東山三十六峰
1.概略

東山三十六峰の第一峰。

標高848mの大比叡、四明ヶ岳(838m)、永井山(794m)、釈迦ヶ岳(760m)、三石岳(みついしだけ675m)の五峰よりなり、古くから名山として知られています。

  三宅橋付近からの比叡山の眺め


  梅谷川下流からの比叡山

   比叡山に関連するリンクのご紹介

   比叡山へ行こう!

   比叡山延暦寺
南北約12km東西は最長でも6kmにもみたない急傾斜の断層崖となっているが、山頂部は緩傾斜です。

山全体は古生層からなりますが、南部は花崗岩のため侵食がすすんで低山化しており、京都と湖西を結ぶ道として古くから山中超え・志賀超えがあります。

鳥類は豊富で日本有数の繁殖地で1930年延暦寺域一帯830万uが鳥獣繁殖地として天然記念物に指定されました。又全山琵琶湖国定公園に指定されています。

1994年12月には延暦寺が世界文化遺産に登録されました。山頂へはケーブルかドライブウェイで行くことができます。比叡山頂遊園後に平成13年4月15日オープンのモネ、ルノワールの陶版画がある庭園美術館「ガーデンミュージアム比叡」があります。

歴史的には785年に最澄が入山し、788年に比叡山寺後の根本中堂を建設し多くの高僧を輩出しました。又、多数の僧兵を抱え西塔の武蔵坊弁慶が有名です。桓武天皇が平安京を開かれた都の東北にあたるため王城の鬼門をふさぐ霊山ともされました。
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2.地形の形成経過

東山の地層は元は繋がっていたといわれています。
約6700万年前比叡と大文字との間でマグマ活動があり、地中から高温の花崗岩がつき上がり、その熱で両側の堆積岩は焼かれ、硬い鉱物ホルンフェルスに変性しました。比叡山頂回転展望閣の横の「将門岩」と言われる岩はその例です。固い岩は風雨に耐えて比叡と大文字の頂きとなりました。冷えた花崗岩は地表に出て風化し、雨水に流され、山肌を削り、砂となって北白川一帯に扇状地を築き現在の山並みになりました。

温暖だった10万年前比叡の表情は変化に富んでいました。

5万年前の最後の氷河期では、シベリアのタイガを思わせる森林へと一変し、四季を通じて北方系のマツやツガなど針葉樹の濃い緑におおわれました。

8千年前の穏やかな気候になると、シイやカシ、ヤブニッケイなど南方系の照葉樹が広がってきました。
北白川に縄文創生期の暮らしの跡が残っています。比叡の豊かな恵み(木の実やキノコ、シカやウサギなどがかけまわっていた)がありました。

霊峰の「水」は、延暦寺の伝説と歴史を彩り、山上の繁栄の礎となりました。
かつて弁慶が参籠(ろう)中にくんだと伝わる「弁慶水」や三代座主円仁が写経に使った横川の「如法水」、千日回峰行者が無動寺谷で取水する「閼伽井」(あかい−仏に供える水)があります。

日照りが続いても地下からの湧き水があります。
各地と繋がった地下水脈は断層に沿って上昇してくるため、比叡の地下水の出口は多くあります。延暦寺は谷水も使っていますが、主は谷川から水を汲み上げ、山頂に二千トン貯水しています。

「大宮川」は横川地域の湧き水を源に、日吉大社の神域をとおり、仰木の棚田をめぐり、琵琶湖に注いでいます。川の流れは速く、清流のまま湖に注ぎます。

山の森はリンや窒素を吸収し、湖の富栄養化を防ぎ、ビワマス、ニゴロブナ等琵琶湖に生息する五十種余の固有種を含む生態系を支えてきましたが、今日では、富栄養化や外来魚の放流・繁殖により在来種が貧しており、生態系が変化してしまいました。

〔比叡山系での中心の山〕
永井山の南嶺より、横川・三石岳にかけて東側へ大きな支稜を派生します。神体山である坂本の八王子山まで大宮川左岸に峰峰を連ね、回峯行者の修行の道となっています。

大比叡中心の主稜は、標高700m前後の尾根が続きます。東西の幅が広がるため「四明ヶ岳」および大比叡から派生する支尾根は比較的長いものが多く、それらが比叡山への登路になっています。大宮川に向けて張り出す東塔本坂の尾根には琵琶湖岸から望めば大比叡の前衛をなしています。
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3.滋賀超え(山中超え)

京都市から大津市に通じる道で、古くから京都と湖西方面を結ぶ近道で、米などを牛馬に乗せて運ばれていました。

<荒神口>
京都からの出発点。名前の由来は少し西のわが国初の荒神が祀られ祀られ通称「清荒神」に由来します。
後陽成天皇が都の守護神とされたもので天皇自作の如来荒神七体を合祀する。
   ↓
<荒神橋>
現在の橋は大正3年にできました。
はじめて橋が架かったのは幕末のころ。人は橋、牛馬は川を渡りました。
   ↓
<東一条>
京大東南アジア研究センター(元京都織物の建物)北側から、斜めに東一条の交差点まで昔の道を今もたどることができます。
   ↓
<北白川バス停>
このあたりから再び斜めに行く。
このバス停の北側に子安観音があります。安産の地蔵と言われ、京都側の入口にあたり、道中の安全を祈願しました。北白川は白川の北地域で、地質は風化・浸食に弱い花崗岩です。その砂地ではかつて花の栽培が盛んに行われ、白川女がそれを売りに行ったものです。
   ↓
<北白川仕伏町>
ここ から滋賀超えのドライブウエィにつながります。
   ↓
<山中峠登口>
「身代わり不動」があり、庶民の信仰をあつめました。
   ↓
<大津市山中町の集落に通じる道(旧道)>
重岩(かさねいわ)の上段に小さな仏像が彫られています。高さ30cm程で、室町時代につくられ、道中の安全を願いました。
   ↓
<山中町集落中央>
高さ2.7mの阿弥陀如来の石仏があります。鎌倉末〜南北朝作
   ↓
<ドライブウェイを一山越したところ>
崇福寺跡(7世紀半頃)
   ↓
ドライブウェイを進み旧道は山の中に入っていきます。
   ↓
<滋賀里内山中>
高さ4mの志賀の大仏があります。鎌倉中期。
大津市側の入口にあり道中の安全を祈願しました。
   ↓
<大津市志賀里>
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4.山頂への主なルート

○本坂・・・坂本〜東塔根本中堂 3.5km

(表参道)日吉大社山道左
   ↓
比叡山高校塀に沿って登る
   ↓
右横川林道、左根本中堂の石碑を左へ
   ↓
送電線の鉄塔の広い広場
   ↓
雑木林、杉林
   ↓
覚運の墓(953〜1007)
   ↓
法然堂
   ↓
和労堂
   ↓
根本中堂

「日吉大社・朱の鳥居」のわきから続く上り坂が、ひと時樹間をぬけ、右に大きくカーブするところは、延暦寺と門前町坂本を結ぶ「本坂」。諸堂建造の木材や寺の営みを支える物資がここから上げられました。上り坂が続きます。 中腹に朽ちた石垣が残っています。
最澄の母を祭った花摘堂があり、釈迦生誕の日だけ女性も参ることができます。

○大宮谷道・・・坂本〜横川元三大師堂 6km

坂本側の「八王子山頂」の巨石を拝み、山肌を削っただけの小径を歩むと石碑と祠がわずかに草庵の名残をとどめています。
渓流を下り谷道を進む。東塔北谷の急斜面が迫る。沢伝いに登るとようやく根本中堂の北に出ます。ここから延暦寺の歴史が始まりました。


○無動寺坂・・・坂本〜東塔無動寺 3km


○北白川道・・・北白川〜東塔無動寺 7km


○雲母坂道・・・赤山〜東塔根本中堂 5.5km (裏参道とも言う)

雲母坂ルートは修学院から音羽川沿いを東進すると砂防ダムにつきあたり、そこを左へいきます。 「親鸞聖人御旧跡きらら坂」の石碑が立っています。最初の30分は、豪雨でえぐりとられた深い筋道で体全体が隠れるほど深いです。

1095年10月、僧兵がこの坂を駆け下りて京へおしよせました。
1108年3月には、数千人の僧兵が気勢をあげ、東山〜吉田あたりの田畑があらされました。
永万元年(1165年)8月には、奈良興福寺と対立した延暦寺の僧徒がこの坂を猛然と下って都に入り、興福寺の末寺である清水寺を焼き尽くしました。

水飲対陣跡碑までくると道は急でも登りやすくなります。途中京都市街が一望され、人工滝の音がすがすがしいです。
南北朝時代、この雲母坂で南朝方の千種忠顕(ちぐさただあき)ら数百人が足利勢に敗れ全員戦死しました。千種塚と慰霊碑まで登れば四明ヶ嶽はほど近い。

赤山禅院の裏手から登るルートもあります。両側は杉、ヒノキの林で薄暗く、道はよいが眺望がきかないため登る人はほとんどありません。千種塚で雲母坂コースと合流します。

比叡山梅谷登り口  
○七曲道・・・曼殊院〜東塔無動寺

曼殊院のそばから渓流に沿う道−「七曲り」は、かって西陣の商人らが講を組んで列をつらねた道です。 せせらぎを渡り、悪路の岩石を踏みしめたことでしょう。つづら折れの急坂に参拝者の無数の灯がゆらめくのがふもとから遠望できたといいます。うねった尾根道の途中、少し開けた所に茶屋跡があり、昔日のにぎわいを物語っていますが今は、朽ちた倒木が横たわり、人の姿はありません。
石標には「北野天満宮三里 西本願寺三里」ときざまれていました。弁天堂はもうすぐです。


○長谷出道・・・八瀬走出〜西塔釈迦堂 4km

八瀬コースは市バス、京都バスの登山口バス停に、「脇ヶ原橋」がかかり、民家の前に「円光大師黒谷青竜寺道」と「元三大師横川道」の石碑が立っています。
民家の庭を通るようにして山道に入るとすぐ「右青竜寺、左横川」とあります。その道を進むとやがて視界が開け、眼下に八瀬、大原、北山が広がります。青竜寺から20分程で「瑠璃堂」につきます。
「瑠璃堂」は、信長の比叡山焼き討ちでただ一つ焼け残ったお堂といわれています。


○大正14年 坂本〜根本中堂、八瀬〜四明ヶ岳までケーブル開通
○1958年  山中越えから比叡山ドライブウェイ開通 田ノ谷峠〜東塔大講堂 6km
○1966年  奥比叡ドライブウェイ開通
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5.比叡山系の中心から流れる主たる河川

地形的特色を反映して東西(京都府側と滋賀県側)で全く異なっています。
滋賀県側は、直接琵琶湖へ流入する小規模な河川が複合的な扇状地を形作っています。
一方京都側は、峰峰より発生する川はきわめて小さく、直接高野川へ流れ込んでいます。その中で比較的大きい川として音羽川があります。

(滋賀県側)

・ 大正寺川
横川南東三石岳東麓に発し東流、千野地区を貫流し、琵琶湖西岸に注ぐ小河川。

・ 足洗川
横川南東三石岳東麓に発し西教寺の北をめぐった谷は、棚田が作り出されている傾斜地を流下する。坂本北部を貫流し湖西浄化センターの南で琵琶湖西岸に注ぐ小河川。

・ 大宮川
延暦寺東塔から三石岳西麓の横川中堂に通じる谷に発し、大宮林道沿いに蛇行しながら南東流、日吉大社の境内を流れる。西本宮の奥、旅館日吉山荘前には滝−落差は大きくないが巨石の間を落ちるニ筋の流れ−がある。名高い石橋の下を流れ坂本地区を東流。流域には里坊を中心とした町並みがあり、ここには大宮川から取られた水がめぐっている。中流部では天井川になっておりJR湖西線をくぐった後は南東流し琵琶湖西岸に注ぐ。最下流部に古い集落があり近世以前は下坂本と言われ物資の集散地だった。

・ 藤ノ木川
坂本ケーブルもたて山駅近くの谷に発し南東流、比叡山高校とグランドの間に出る。ここから権現橋下までは大きな石の転がる渓流。河畔林が張り出し昼でもうす暗い谷を通り里坊(※1)の塔頭群の中を曲折して流れる。護岸が里坊の塀と同じく穴太衆積み(あのうしゅうづみ)(※2)になっている。坂本南部を貫流し琵琶湖西岸に注ぐ。

(※1)里坊:延暦寺の僧侶は山で生涯を過ごしたが、山の生活は非常にきびしく江戸時代の始め頃から高齢になると天台座主に願い出て里に住む許可を得た。その住まいを里坊という。多い時は90ヶ寺あったが、現在は54ヶ寺のこっている

(※2)穴太衆積み:石工の出身が穴太村であったため穴太衆と言われていた。
自然石を加工せず組み合わせのみで積み上げ、小石を詰め石として用いている。又、奥行きの深い積みかたで角の美しさと堅固な石組みになっている。戦国時代には城の石垣作りに全国に飛び回っていた。現在、坂本では一軒のみ。

・ 四ツ谷川
比叡山ドライブウエイ中間地付近に発し東流、坂本と穴太の境を流れ、下坂本から琵琶湖西岸にそそぐ小河川。

・ 際川
比叡山ドライブウエイ中間あたりに発し京阪南志賀北辺りから際川地区を東流、しばらく国道161号の西側に沿ってながれ琵琶湖西岸にそそぐ小河川。

(京都側)

・律川 呂川 津川 大長瀬谷川 戸寺川 丹住谷川 桂谷川 梅谷川

・音羽川
一乗寺の北東境、比叡山南東麓諸流が集まり西流し音羽谷となり、修学院離宮の南を過ぎ松ヶ崎橋北で高野川左岸に注ぐ長さ5.4km川の流域の地質は風化、浸食に弱い花崗岩で古来より下流の土砂災害をもたらしてきた。そのため音羽谷にはいくつもの大きな砂防堰堤が連続し、修学院離宮辺は特に重点的に整備されてきた。

・一乗寺川〜太田川〜疎水分流
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6.白川石

比叡山南面山域には花崗岩が広く分布し、なかでも音羽川流域と白川流域では山中に露出する良質岩を切り出し加工する石材業が発達してきました。

この白川石は京都を代表する石材の一つであり、熊野神社や桂離宮の造営に使われたことが知られています。城郭や社寺の石材として、又、灯篭、庭石等庭園用として各種の用途に加工され、アメリカにも輸出されました。風化した白砂も造園用として現在も多くの需用があります。


7.比叡山の動植物

哺乳類では、ニホンザル・シカ・イノシシ・イタチ・ノウサギなどが身近な存在で他にリス・キツネ・ムササビなどもいるようです。植物では山麓から中腹まではアカマツ林が多く、延暦寺領を中心としてスギ・ヒノキの植林帯が広がります。

ところどころコナラ・クヌギなどの落葉広葉樹林やアラカシ林がみられアカガシ・ウラジロガシもかなり上部まで混生しています。600m以高や横川には局地的にモミ林が残存しツガやイヌブナが優占するところもあります。
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8.神社・寺院等

〔山岳仏教延暦寺創建〕

大津市坂本の八王子山頂(381m)に、高さ5m余りの平らな岩が峰の一つに鎮座しています。ふもとから神々しさを感じたのでしょうか、いつしか「金大巌(こがねおおいわ)」と呼ぶようになりました。
巨岩は聖なる「岩座」(いわくら)としてあがめられ偉大な山の境界、山頂の主との意味がこもる「大山咋(おおやまぐい)」、「山末之大主(やますえのおおぬし)」の神の名が「古事記」にみえます。

比叡山東麓(坂本近辺)の八王子山の日吉大社の「山王祭」は「大山咋」の夫妻を出迎えにいく神事で始まります。
峰の一つに発した信仰から次第に山全体が霊場と見られるようになります。

一方天智天皇2年(663)朝鮮の白村江(はくすきえ)の敗戦で、多くの百済人が日本に亡命し、天皇は彼らを近江国に住まわしました。それ以前の大化の改新以前にも漢氏の集団渡来があり、その一部が近江に分置されました。
こうして7世紀〜8世紀にかけ帰化人の活躍がさかんになり、彼ら有識者の間に比叡山の存在がクローズアップしてきました。

平安時代、若き僧が信仰の道を求めて山に登りました。のちの「最澄(767〜822)」です。
坂本の生源寺(しょうげんじ)で生まれた「最澄」は、後漢孝戯帝の末裔であったと言われ、延暦4年(785年)大宮川の谷を遡って初めて入山しました。山頂近くに建てた草庵は、わづか身一つが入るものでした。

その後、仏教の法文研究に乗り出し、かくて奈良時代の仏教諸宗派にみる論理中心主義を捨て、法華経による一宗樹立を考え、その道場として延暦7年(788)比叡山寺を建立しました。これが後の「根本中堂」です。

804年には唐に渡り、460巻の経典を将来しました。その後天台法華宗が公認され、823年には延暦寺の寺号で16の院をそなえた大寺院に成長、やがて全国30か国にわたった大荘園の領主として政治にまで圧力を加えるようになりました。

仏教の権威、広大な荘園領地の財力、これを守る数千の僧兵、平安時代から京の都を脅迫した僧兵による山王神輿の強訴、天台宗分裂による相互焼き打ちがあり、宗教的に退廃すると法然や親鸞が出て鎌倉期の新仏教を生み出しました。

南北朝時代数十万兵に攻め込まれ、元亀2年(1571年)9月織田信長の焼き討ちにより一山が壊滅しました。焼き討ちをのがれた建物は、西塔の「瑠璃堂」のみで、現在の山上の伽藍は全て、秀吉や家康により再興され、江戸時代前期に現在の規模になったものです。


〔延暦寺の主だった伽藍〕

比叡山延暦寺の規模をあらわして「三塔十六谷」という言葉があります。
三塔とは「東塔」、「西塔」、「横川」のことで教学と修業の中心、伽藍や僧坊もそこに集まりました。東塔と西塔は隣り合っていますが、弟子・円仁が開いた横川は4km近く離れています。十六谷というのは三塔を地形的にさらに細分した呼び方です。

(東塔)
根本中堂:
東塔の中心で延暦寺の本堂。1642年再興されました。入母屋造り。

大講堂:
内陣の左右に並ぶ九体の木造。右に法然、親鸞、良忍、真盛、一遍、左に智証、道元、栄西、日蓮が坐る。昭和31年火災で全焼。現在の建物はその後山ろくの讃仏堂を移築したものです。

浄土院:
最澄の廟所。根本中堂から1km離れた東塔の西谷、急坂を下った山ふところにあります。
廟を護る僧を律僧といい終生山を降りない覚悟で厳しい戒律を守りながら廟の清浄を保っています。

その他:文殊楼、戒壇院、阿弥陀堂、東塔院他
                    
無動寺谷:
根本中堂から南へ徒歩25分。回峰行の本拠地。明王堂他。

(西塔)
釈迦堂:
西塔の中心伽藍。三井寺金堂を1595年に移築した鎌倉時代の建物で瑠璃堂を除くと三内で一番古い建物です。東塔から2kmそこそこしか離れていません。堂の後ろの林の中にある相輪塔は高さ10mの青銅製。付近には鎌倉時代の大石仏もあります。

その他:法華堂、相輪塔、瑠璃堂他

(横川)
横川中堂:
昭和17年落雷のため焼失。鉄筋コンクリートの建物として復元再興されました。奥比叡ドライブウエイがすぐそばを通っています。観光客は東塔に比べきわめて少ないですが、西塔から旧道をたどると昔を味わうことができます。

その他:元三大師堂、恵心堂、根本如法塔他


〔洛北での延暦寺と関連の深い寺院〕

北山別院
もともと比叡三千坊の一つ。親鸞が青蓮院で得度した後、ここで修学したといわれています。

曼殊院
もともと最澄が比叡山に建てた一院である。良尚親王により1656年に今のところに造営されました。

赤山禅院
貴族の山荘だったが、887年比叡山の僧たちが金をだしあい買取りました。
慈覚大師が唐に行ったとき、中国赤山の廟社で礼拝祈念し大願成就したため、この地にその神を勧請したのが始まりです。京都の鬼門にあたるため方除祈願所として定められ、天台の鎮守で天台の別坊となりました。雲母坂の入口にあり、明治になくなった雲母寺(うんもじ)の不動堂だけが赤山禅院に移され今も残っています。

三千院
元は最澄が比叡山に根本中堂を営んだとき、東塔南谷に一宇を建てたのがはじまり。860年承雲大師が東坂本梶井の里に大伽藍を作ってこれに移り、応仁の乱以来、現在の地にうつりました。

勝林院
慈覚大師の開創、寂源によって中興されました。法然が浄土念仏宗をとなえて南都北嶺の圧迫を受けていた時に、ここで一向専修の問答をやりました。法然は疑問点に一々明快に答えたという。これが有名な大原問答です。

今はない寺院  
月林寺(げつりんじ)−曼殊院あたり
修学院−赤山禅院の西北あたり
一乗寺−一乗寺集会所あたりに碑がある


〔大津市坂本〕

延暦寺創建以前より日吉大社の鎮座地でしたが、良源が「18代天台座主」に就任する平安中期以降、延暦寺=山門の勢力拡大に伴い、その膝下領域としての重要性を増していきました。

中世には日吉大社から東に寺家、社家、日吉社彼岸所、生源寺、里坊などの山門支配機関が立ち並びました。又、「山門領荘園」を管理する中心として、山上への物資補給基地として多くの僧俗が居住しました。なかでも諸雑事を担当した山門の従属民である「公人(くんに)」は、重要な位置を示しました。又、里坊(※1)は俗人的な世俗性の強いものでした。

(※1)
里坊:延暦寺の僧侶は山で生涯を過ごしたが、山の生活は非常にきびしく江戸時代の始め頃から高齢になると天台座主に願い出て里に住む許可を得た。その住まいを里坊という。多い時は90ヶ寺あったが、現在は54ヶ寺のこっている

「山門領荘園」の多くは近江・北陸地方に分布し、そこからの年貢や材木は下坂本湖岸に陸揚げされました。又、山門は坂本より京白川に至る山中を経るルートを造成・掌握し、京都への輸送を行いました。そのため商品の仲買・保管をする商業活動に乗り出す者もいました。

湖岸には運送業者である馬借(ばしゃく)や商人が居住しました。馬借は山門に従事しつつ、馬に米俵などを積み13人ほどの隊列を組んで京都〜坂本の物資輸送にたずさわっていました。彼らは「日吉社の参道」の「比叡の辻」や「山中町」に住んでいました。馬借は1300年代後半には、米の販売や関所の通行など、流通上の問題でしばしば蜂起し、抗議行動を行っています。

同じく湖岸に、海津屋、越中屋、美濃屋という有力な問屋、商人が京都や北陸道、東山道との交易輸送に従事しました。

山門は商業利益を吸収しようと通過、着岸する船舶より関銭を徴収していました。
このように山門の荘園支配の中心地として発展した坂本は、商業流通に加え京都在住の荘園領主の経済を支える役割を併せ持つようになり、「上坂本」と「下坂本」の機能分化の様相を呈していきました。

中世(1501頃)の人口は記録から2万人を超えたと思われます。

1571年、信長による「比叡山焼き討ち」があり、坂本は幕を閉じます。比叡山は天下統一のさまたげになる最大勢力であり、その崩壊が不可欠であったため、武田、朝倉、浅井と手を組み、焼き討ちを行いました。

信長のその後、光秀によって坂本城が築かれ坂本は近世の統一権力の下に組み込まれていきました。光秀は坂本に入城してから10年で悲劇の死をとげました。

坂本のはずれの山腹にある「西教寺」は光秀が手厚く保護し た寺であり、焼き討ち後再興に尽力しました。堅田合戦で戦死した部下18人の供養米を納め、又、妻を葬り、光秀一族の墓もたてた寺です。

1585年浅井長政が政治の中心を大津に移すとともに、経済の中心も大津になり、1721年の坂本の人口は2千人余りに過ぎなくなりました。
その後、 1951年大津市に編入されました。

主だった社寺等:滋賀院門跡、慈眼堂、旧竹林院、日吉大社、ケーブル坂本駅
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9.東の比叡山と西の愛宕山

比叡山は「王城の鬼門」をふさぐ「霊山」であり、愛宕山には平安京を火災から守る「愛宕神社」があります。

「愛宕山」は701年〜704年に「役行者(えんのぎょうじゃ)」が「雲遍上人泰澄」と共に開き、「愛宕神社」をこの地に移しました。愛宕神社は、以前は鷹峰、亀岡側の千歳町国分、さらに乙訓と、古く遡れば丹波や山城の集落に祭られていました。

後に「和気清麿」が社殿を造営したと伝えられています。その後、「神仏両部道場」として「白雲寺」など「山上五坊」も設けられ「本地仏」、「将軍地蔵」が祭られました。
明治3年の「廃仏毀釈」で神社のみになり、それらは西山の「金蔵寺」に移されました。

本殿には、「いざなみのみこと」ら五柱、若宮には火の神様である「迦遇槌神(かどつちのかみ)」が祀られています。火の神は何物をも焼き尽くす火の威徳を備え、同時に打ち勝っていく陽気と発展の神であります。このため、大切な火の管理をする「火伏せりの神」、「武威の神」として愛宕神社は庶民の信仰するところとなり、全国の愛宕信仰の総本家として勢力を有するに至り、京都を中心に村々には愛宕講が組織され、愛宕灯篭の立てられているところも多くあります。

愛宕神社のお使いは「イノシシ」です。本殿の彫刻などにもみられる「和気清麿」が流された時、まわりを「イノシシの群」が守ったからという伝説があります。

神社であるのに、「しきみ」が捧げられ、火の御符と共にこれを受けて帰り、かまどの上に安置する風習は京の古い民家に今も残るところです。7月31日〜8月1日にかけての「千日もうで」で、この時にも「お礼」と「しきみ」をいただいて帰り、田畑に立てると虫よけのお守りになるといいます。

神社から参道をもどり水尾へ下ります。水尾は山間幽静の地です。特産の柚子が有名で、晩秋になると全村が色づく柚子の実におおわれ大変美しいです。地元の民宿では柚子風呂で客をもてなします。

清和天皇(880年没)は退位後、この地に隠棲され、御陵は村の北側、清和山にあります。
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10.東山三十六峰

第一峰 :比叡山

第二峰 :御生山(みあれやま)
土地には御蔭山という橋やアパートもあり、御蔭山に統一されそうな勢いである。
八瀬駅から日立製作所の洛北山荘、かまぶろ温泉の喜鶴亭、高折病院宝嶺山荘までいくと、それ以上奥には車は入れません。細い林道を行くと左手に登り道があり朱塗りの鳥居が見えます。その突き当たりの石垣の上に「御蔭神社」があります。

ふだんは訪れる人もありませんが、5月12日の御蔭祭りの日だけにぎわいます。葵祭りを行うため、下鴨神社が御蔭神社の祭神−玉依媛命(たまよりひめのみこと)、加茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の荒魂を迎える神幸祭で京都で最も古い神事の一つといわれています。
加茂建角身命は古代豪族加茂氏の祖神、その娘が玉依媛命で後に上加茂神社の祭神である加茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を生んだ。御蔭神社と上加茂、下鴨神社の一体的関係はここから始まります。

現在でも5月12日冠烏帽子にあおいをさし、神馬に錦蓋をかざして下鴨神社から行列をし、御蔭神社で祭儀が行われ下鴨神社へと往古そのままの優雅な神幸祭が下鴨神社氏子を始め、岩倉、一乗寺、静原、上高野、松ヶ崎、田中在住の古来関係各家の奉仕により行われています。これは下鴨神社がこの地区に広大な領地を持っていたことから深い関係ができました。

御生山は神社の鳥居から30分程度で頂上らしいところにでます。砂防指定地で古い石垣がくずれかけています。御蔭神社も今の宝嶺山荘あたりにありましたが地震のため現在地に移りました。移転により山に隠れて見えなくなっています。

第三峰 :赤山 195mの山林

第四峰 :修学院山 地元では離宮の山 442m

第五峰 :葉山 葉山と呼ばれる丘

第六峰 :一乗寺山 三井寺の末寺一乗寺があった。

第七峰 :茶山
江戸初期朱印船貿易で富豪となった茶屋四郎次郎情延が秀吉、家康らを招いて湯茶の会を楽しんだ別荘があったためつけられたと伝えられています。130mの小丘で現在は住宅地になっています。

第八峰 :瓜生山 301mで狸谷不動院がある。山ろくには京都芸術大学がある。

第九峰 :北白川山

第十峰 :月待山 銀閣寺の裏山

第十一峰:如意が岳 大文字 466m

第十二峰:吉田山 京大 102m

第十三峰:紫雲山 金戒光明寺

第十四峰:善気山 大文字西麓の小高い山

第十五峰:椿ヶ峰 哲学の道大豊神社の山 340m

第十六峰:若皇子山(にゃくおうじやま) 熊野若皇子神社の山

第十七峰:南禅寺山

第十八峰:大日山 三条通突き当たり 320m

第十九峰:神明山

第二十峰:粟田山

第二一峰:華頂山 知恩院の境内

第二二峰:円山

第二三峰:長楽寺山 将軍塚 230m

第二四峰:双林寺山 東大谷祖廟

第二五峰:東大谷山
 
第二六峰:高台寺山

第二七峰:霊山

第二八峰:鳥辺山 清水新道

第二九峰:清水山 234m

第三十峰:清閑寺山 東山ドライブウェイ

第三一峰:阿弥陀ヶ峰 智積院 豊国廟

第三二峰:今熊野山

第三三峰:泉山(せんざん) 月輪陵

第三四峰:恵日山(えにちざん) 東福寺

第三五峰:光明峰 東福寺

第三六峰:稲荷山 伏見稲荷

〔参考図書〕
上高野子ども風土記、京都散策2―大原への道、東山三十六峰を眺めて心のしこりをはらいましょう、霊峰比叡−京都新聞、日本地名大百科、百科事典、エースガイド、日帰りの旅、kyouto sinbun街道を巡る「志賀超え」、比叡山―その自然と人文、総合ガイド比叡山、鯖街道、大津市教育委員会穴太衆積み紹介立て札、アルパインガイド京都・奈良、京の七口、洛北探訪、インターネットホームページ
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